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2024/11/21 16:09 |
パロパロ

パロパロとは、フィリピンの言葉で 蝶々 と言う言葉らしいのだが日本で働く

フィリピンホステスの間では 蝶が花から花へと飛び移る様を日本人男性に

見立て 「浮気しないでね」。と言う意味でこの言葉が使われていた。健さんも

初めて沖縄でフィリピンパブに行った時に 偶々、隣に座った かわいい系の

女の子が グローリー と言う子だった為 それ以降 店に行くと 他の女性と

会話したくても 「あなたパロパロでしょ」。と言われ 健さんの隣には いつも

グローリーが座っていた。この子が健さんの言う パーソナリティ バッド な

女の子。 実は、健さん この子より この子の姉だと言う カウンター内から

ホステスに接客場所を指示する役の ジョシー と言う子の方がタイプだった。

が しかし 時すでに遅し。 健さんの運命は 最初に この店に行った時から

決まっていたのでした。 姉妹だと 姉を口説けば妹のグローリーには筒抜け。

それでもこの店に通い続けた訳とは?。それはたぶん多くの日本人がそれに

ハマってしまうフィリピン人の 親、兄弟で助け合う 「助け合い精神」 に心を

奪われてしまうからだと思う。 この当時から言われていたのが フィリピンの

女の子と結婚しても 毎月、フィリピンの家族の為に 3万円程度の 仕送りが

必要だと言う話は知っていた しかしこの店で出会った カミル と言うダンサー

から話を聞いた事もキッカケとなりこの「助け合い精神」にのめり込んで行った。

この子の話によると たくさんいる兄弟の中で 自分はあまり頭が賢くないので

下の賢い弟を大学に行かせて家族を助けてもらう為に、自分が頑張っている。

と言う事でした。店では最年少で顔も正直、可愛くない子だったけどリーダーの

人とショータイムに上半身を露出して踊るのは 彼女だけだった。 異国の地で

体を張って家族の為に頑張る姿が印象的だった。若いので嘘も、上手も下手で

「けんちゃん、お金ちょうだい」!。そんな調子なもんで貢いでくれる人もおらず。

何にせよ フィリピーナを愛した男たち は彼女達の家族と言う足枷を どうにか

してあげたくて 店に通っていたんじゃーないだろうか。



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2010/09/06 17:39 | Comments(0) | フィリピン ネタ
愛という名のもとに


17年前、フジテレビで放送されていたドラマのタイトル。 このドラマで注目して

見ていたのが、主役3人の恋愛模様ではなく フィリピーナのジャパゆきさんに

いれこみ 会社の金を使い込み自殺してしまう チョロの様子だ。過去に沖縄で

フィリピンパブにハマっていた健さんにとっては、とても共感 出来る内容だった

なーと 今でもよく覚えている。 その後も 映画 「月はどっちに出ている」。とか

ドラマ 「フィリピーナを愛した男たち」。など 女優 ルビーモレノ が大活躍して

いるのをよく見たのもこの時代だった。 この辺りでも福山や笠岡までフィリピン

の人達がいる店が多く存在していた。しかしこの フィリピンパブ ブームの中で

健さんにとってラッキーだったのが ブームが来る前に マイブームが終わって

いた事が 幸いし 笠岡に帰って来ても 再び フィリピーナに 熱を上げる事は

無かった事だ。おかげで 借金する事も 自殺する事も はたまた彼女を追って

フィリピンまでいっちゃた なんて事も無くて済んだ。  中には この頃に実際に
 

国際結婚をされて 今でも  幸せに暮らしている方もいらっしゃいますが そんな

方は、とても良い人に巡り会えて本当に良かったなーと思いますが・・・。

健さんの場合は 相手が悪すぎて・・・。  「私のお母さん病気」。とか言って

お金を無心するような子だったので・・・。 ちょっと嘘っぽい演技と話で・・・。

そんなこんながあり その子に店で 「パーソナリティ バッド」。と言ったら大泣き

された事もあった。英語が苦手なもんで単語での 性格、悪い は とてもキツイ

ストレートの球だったらしい。いろいろあったけど 健さんが沖縄を離れる最後の

夜に 彼女がカラオケで歌ってくれた  山口百恵の 「さよならの向こう側」。は、

今でも 健さん の 心に 残っている。


 

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2010/08/19 14:14 | Comments(0) | フィリピン ネタ
フィリピンパブ


以前、 勤めていた 会社時代 の 事だから   20年近く  前の話になる。  九州の支店に

配属された 僕は  若き 現場監督 見習い として 九州一円の 現場を  転々としていた。

そんな ある日、沖縄での仕事で 先に行っていた メンバー の 交代要員  として 僕に

沖縄出張 の 辞令が出た。 久々に飛行機に乗る事と 観光で考える沖縄のイメージで

心躍らせて現場に入った。しかし 仕事として何ヵ月も民宿に滞在する生活の 沖縄は

とても ヘビーで、暑さ対策の為であろう 頻繁に 出される 揚げ物 や 炒め物の 数々。

一度、「今日はそうめんよ」。なんて言うから てっきり 涼しげな そうめんを 想像

していて 「 ソーメンチャンプル」 が 出た時は、正直 今すぐ 帰りたいと思った。

そして僕は 初めて髪を 茶髪に 染めた。 いつも考える事は 「沖縄を出たい ・ 会社を

辞めたい」 と いう事。 その気持ちは お盆休みで帰省が許された後も続いた。

そんな中、下請けの おじさんと たまたま 入った “ フィリピンパブ”。何かが 弾けた。

ほかの先輩や 下請けさん達が 日本人のスナックに 出入りする中、僕は もう一人の

とてもおとなしい おじさんと二人で “フィリピンダンサーズチーム” を結成。お互いに

財布の中身を 助け遭い よく店に行った。 店では 誰もが、「社長さん」 と呼ばれた。

こうして若き19歳の社長さんも 苦手な水割りと コーラを飲みながら カラオを 熱唱し、

よく 「いとしのエリー」の替え唄 (名前の所を女の子の名前にして)を 歌っていた。

帰りたい病は  いつしか消えて、帰りたく なくなっていた。 その後も 若き 社長さんは

昼間に 好きな女性達と デパートで買い物したり   彼女達から、昼間 あまり いい物を

食べてないと 聞けば スーパーで肉などを買い物し 差し入れ。 そして若き社長さんが

ビンボー  になった頃、 ようやく 現場が終わり 沖縄を 離れる事と なった。

その後、福岡に戻ってから 何度か 開店前の店に 電話をしたけど 福岡の 冬の寒さで

気持ちは  クールダウン。 その後 半年ほど 働き、2年で その会社を辞めた。 やはり

地元はいい。笠岡は最高。方言も食べ物も自分に合っている。刺激は少ないけど・・・

その後は 台湾の人とデートしたくらいかな。 大ハマリしない人生だから 借金は無い。

そして 平和に 今に 至っている。

    今でも マハルキタ (愛してる) タガログ語 の 単語は 覚えている。  







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2010/01/29 17:19 | Comments(0) | フィリピン ネタ

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